還暦のお祝いをしてもらったのが12年前だとは何と年月が経つのは早いものでしょう。今回も含め6回の辰年を区切りとしてこれまでのことを思い出しながら書いてみようと思います。

1)12歳の辰年まで
私は昭和27年(1952年)、西目屋村大秋という小さな村の山奥で生まれた。その当時は保育所もなく小学校の入学式までの記憶がほとんどない。入学式の記憶が残っているのは、一緒に入学した女の子が泣いて記念写真をみんなと一緒に撮れなかったのを覚えているからです。今はその大秋には小学校から中学校の児童生徒は全部合わせても10人には満たないようですが、私たちの頃は1学年20人でした。学校から見える岩木山を何枚も写生で描いた記憶があります。弘前から見える岩木山には3つの山があるが、大秋からの岩木山は頂上が平らで一方が少し高くなっている。最近、その高くなっている部分が右側なのか左側なのか分からなくなった自分に気づいた。あれだけ何枚も描いた岩木山なのに。それだけ故郷から心が離れてしまったということですね。

小学校の頃は教室の中で勉強をした記憶がほとんどない。6年生の頃だったか、もう亡くなったが仲の良かった友だちと二人で社会科の資料を調べた記憶だけだ。教科とは関係なく、担任の先生は書道とそろばんを教えてくれた。そろばんは暗算の練習をしたので、その後の人生で大変役に立った。他の人よりも速く計算ができるのですから。ただ、数学の試験で間違いをすることが何回かあった。ある数学の先生が、「論理的にはちゃんとしているのに、なぜこの答えが1違うのか理解できない」、と聞いてきたことがあった。私には頭の中のそろばんの珠が一つ違ってイメージされていただけなんですけど。最終的な答えの数値が違っても考え方がちゃんとしていれば点数がもらえた時代でしたからこれでも通用したんですね。

数字のこだわりは今でも続いている。街中で車を運転していると、対向車のナンバープレートに自然に目が行きます。そのナンバープレートには数字が2桁ずつ分けて書かれています。2桁の2組の数字を見ると自然に足し算をしているのです。「ちょうど99だ(空間がいっぱいになってしまう感じ)」、「合計すると1が3つ並んだゾロ目だな(幅の狭い横に長い図形)」、「これはきれいな数字の組み合わせだ」、「これは2つとも素数の組み合わせのナンバーだ」。この計算には想像の中でのそろばんを使っている。頭の中では計算していない。このそろばんの珠は自然に動いているのではなく、ハンドルを握る自分の右手親指と人差し指が動かしている。

筆で文字を書くことも小学校4年生から6年生までの担任の先生に教わった。でも、自分が書いた文字に先生が赤い筆で書き直した記憶はない。それぞれの子どもたちが手本を見て書くが、先生が手を入れることはなかった。中学校で教科の中で半紙に文字を書いた記憶がなく、小学校の時の記憶しかない。年を取ると、後輩から色紙を頼まれたり、書いた文字を手拭いにしてくれたりという機会が結構ある。昔取った杵柄というが、この年になって筆で文字を書いても小学校の頃に練習していたためか何とかなるものだ。

自分の子どもたちや孫たちのことを見ていて宿題があって大変だなぁと思うことがある。私が小学校の頃は宿題はなかった。夏休みと冬休みには工作で何かを作って提出すること、図画を描いて提出すること、そして夏休み帳や冬休み帳を提出するという宿題はあった。夏休み帳はいつも出校日の前の日に書いて出していたことを思い出すが、これ以外で自宅で勉強した記憶がないのです。記憶がないのは当たり前で、自分の机はなかったし自宅では勉強したことがなかったのですから。

小学生の頃、父の125ccのオートバイに乗っていた。自分で運転してです。このオートバイは転ばすと起こすのが大変なくらいの大きなものだった。大秋には警察はいなかった。ある休日、オートバイを運転して小学校まで行った。そこには休みの日だったのに校長先生がいた。校長先生は運転を止めることもせず、叱ることもせず、「気つけで帰れよ」と言ってくれた。今の世の中ではとても考えられない対応だった。また、中学校の頃だから12歳は過ぎていたが、友だちを何人も乗せて車を運転し、「乗ってる頭数が多い」と駐在さんに止められた。もちろん車の免許はなかった。車を見た駐在さんは、「この車、沢田さんのでないが?」ということになり、そのまま家に帰してもらった。これも今では通用しませんね。(24歳の辰年に続く)