今年の元日の朝、いつものように新聞を広げていると、東奥文学賞の記事がありました。今年は日野洋三という人が「漆花に捧ぐ」という題名で受賞。日野洋三、あれっ? 写真は大熊先生に似ている。よく見ると、日野洋三は弘前総合医療センター院長の大熊洋揮先生その人でした。

その瞬間、私の頭の中には高校時代の友人の姿が浮かんできました。かなり前の話になりますが、東奥日報には10枚小説という文学賞がありました。私の友人は、この10枚小説に「りんごを買った日」という題名で応募し入賞したことがあるのです。

仙台の大学を卒業した後、横浜市の自宅から電車で川崎市に通勤していました。その友人が、仕事が終わり横浜駅から自宅に歩いていると、何と無意識のうちにりんごを買って手に持っているのに気がついたのです。りんご農家の息子である自分がりんごを買ってしまった。この感覚は私にはよく分かります。故郷を離れて10年あまり、自分の心も故郷を離れてしまった、津軽はもう遠い存在になってしまった。それを「りんごを買った日」と題して書いたのです。

『天津風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ 
乙女の姿しばしとどめむ』

この友人が私に教えてくれた僧正遍昭の和歌です。この頃の私は国語の勉強は試験があるからやっているようなものでした。しかし、私の友人はこの和歌を例に出して、人の気持ちを伝えるのにいかに言葉が大事かということを私に教えてくれたのです。五七五七七、たった31文字で何と繊細な人の気持ちを表現できることかを。

友人と同時に津軽塗職人だった私の叔父のことも頭に浮かんできました。結婚記念に叔父から津軽塗の箸を2膳もらいました。今年の元日の朝も、その箸でご飯を食べながら新聞を読んでいました。まったく艶を失い傷ついた45年前にもらった津軽塗の箸です。津軽塗には思い入れが強いので叔父の姿がすぐに浮かんできたのです。

さて、脳外科医である大熊先生が小説を書いていることなどまったく知りませんでした。そして津軽塗に弟子入りしていたことももちろん知りませんでした。その理由が、何か生きた証を残したいとのこと。大熊先生は大学教授としてたくさんの優秀な脳外科医を世の中に送り出しています。明治から昭和初期の政治家で医師でもある後藤新平という人がいます。その後藤新平が、「金を残して死ぬのは下だ、事業を残して死ぬのは中だ、人を残して死ぬのが上だ」、という名言を残しました。これに従うと大熊先生はもう生きた証を残していることになります。

それでも生きた証を残す目的で数年前から小説を書き始めたようです。令和3年7月、大熊先生は弘大教授から国立弘前病院院長として移動しています。その忙しい時期に津軽塗に弟子入りし、弟子入りして8ヶ月後に師匠が亡くなったことを契機に「漆花に捧ぐ」を書き始めていたのです。

「漆花に捧ぐ」は、いわゆる津軽の馬鹿塗といわれる津軽塗の技法が誕生するまでの秘話を、史実に基づきもちろん大熊先生の創作を織り交ぜて書いた歴史小説です。約300年前の江戸時代。塗師の池田源太郎が献身的な家族に支えられながら厳しい修行を行い、ついに独創的な塗の技法にたどり着いた道のりを小説として完成させたです。

「漆花に捧ぐ」を読んでいると、すごく細かい歴史的な事実を調べ上げたに違いない、いろいろな根拠を求めて書いたに違いない、そして人物を設定し、構想をどんどん広げて行った、大変な作業だったのだろうなと思いました。「下地塗りと研ぎの作業を計三回繰り返した」、「研ぎにより下塗りの漆を表出させる」、「漆は湿気により乾燥硬化するため、中塗り以降の段階では濡れ手ぬぐいを敷き詰めた三坪ほどの漆風呂に置く」。漆に詳しくなければ書けないことは明白です。

2月18日には東奥日報社で大賞の贈呈式がありました。私はそこで来賓を代表して祝辞を述べてきました。小説を書く大熊先生はご家族からは冷たい視線を感じていたようです。贈呈式にはお嬢さんが出席しました。「漆花に捧ぐ」は東奥日報社からこの夏にも出版されます。