民主党政権は、高校の授業料を無料にするという。私は、これに反対しているわけではありませんが、高校教育とはなにか、大学とは何かということを考えるきっかけになりました。

古い話になりますが、私が中学校の時は高校に進学する人はクラスの半分もいませんでした。それが今では、日本全体では98%、私の出身地である西目屋村の進学率は100%です。子どもの数が少なくなるにしたがい、高校の質を選ばなければ、どんな成績の子どもでもどこかに進学できるのは当たり前になってしまいました。進学するというのは意欲と努力を必要としたものでしたが、今では惰性とも思える何となく上の学校を目指すという風潮になってしまいました。勉強したいから進学するのではなく、みんなが行くから高校へ進むという子どもたちが増えてしまったようです。

大学入試に関しても、私たちの受験時代は「受験地獄」と言われました。入りたくても競争率が高くて希望通りに進学できませんでした。今は、「全入時代」です。これも高校と同じで、経済力があり大学を選びさえしなければ、誰でも大学に進学できます。受験勉強をせずに入学してくる学生もかなりいるようです。もちろん全ての場合にいえることではありませんが、学ぶ意欲に乏しく、大学に何を期待して入ったのか分からない学生が多く、大学は大学で、学生に何を期待しているのかも曖昧だというのが実態のようです。定員を確保できない大学もかなりあるようです。相互の期待が希薄になれば、教育の役割が曖昧になってしまうのは自然の成り行きです。

こうした高学歴化は学力向上と結びついていないと私は思っています。高学歴化が進むにしたがい、「何がしたいか」が分からない子どもたちが多くなったのではないかと思います。「何かができる」という自信をもたないまま学生生活を送っていると、「何かをしたい」という気持ちも出てこないのではないかと思います。結局は、教育で人を磨いて社会に出るというのではなく、とりあえず高校や大学に進学することで、大人になる時期をただ延ばしているだけなのかも知れません。

日本国憲法第26条には教育の義務が規定されています。義務教育というと学校へ行くのが義務だと誤解している人がたくさんいます。そうではなく、憲法で規定しているのは、保護者に対して子どもに教育を受けさせる義務を定めたもので、子ども自身が学校へ行くのが義務なのではありません。詳しいことは知りませんが、昔は子どもを労働力と考え、教育を受けさせずに働かせる親がいたために、この義務教育の考えが出てきたものだと解釈しています。

国民の基礎学力の充実は大切なことです。昔から、「読み書きそろばん」と言われていますが、基礎的な国語能力が不足して漢字の読み書きが不十分だったり、分数の足し算ができない状態では、新聞を読み通すこともできないでしょうし、深く考えることもしなくなるでしょう。義務教育期間での基礎学力も不十分なまま高校へ進み、そこでも「読み書きそろばん」という基礎的な能力を身につけずに過ごしてしまっていることを、義務教育を規定した当時の人たちは想像したであろうか。

インフルエンザワクチンを接種する時は、問診票に自分で署名する必要があります。通院している人で自分の名前を書けない人はいません。目が見えているのだろうかと思われるお年寄りが、「沢田内科医院ニュースレター」を読んで感想を伝えてくれることがしばしばあります。私はこの二つのことを見ても、日本の義務教育というのはすばらしいものなんだなぁと思いました。せっかく勉強する機会があり、それができるのですから、子どもたちにはよく勉強してもらいたいと思います。