アメリカで医療保険改革法が成立して間もなく、4月2日の日経新聞に『米医療改革 ファンド動く』という見出しの記事が出ていました。保険に加入する人が増えることで、関連業界では被保険者の急増による「顧客」の拡大が見込めるため、投資ファンドが動き始めたという記事でした。オバマ政権は無保険者を3,200万人減らすことが目標ですので、その分、医療関連業界には「新規顧客」が生まれることを意味します。人口3億人のアメリカでは市場が1割増えるわけですから、経済の動きに敏感な投資ファンドには大きなビジネスチャンスなわけです。

伝統的に自由を最大限に尊重するアメリカでは、医療制度にも政府が介入することを望んでいません。その結果、公的医療制度は発達せず、企業を通じて民間保険会社と契約する保険制度が中心になりました。これは医療を市場原理に任せるということです。当然のこととして企業は健康な人を雇用しますし、雇われた人は企業を通して安い医療保険に加入できます。しかし、病気になって働けなくなれば企業を解雇され、個人的に高額な保険を契約しなければなりません。

一方、保険会社は株式会社ですから、株価が下がることを恐れる経営者は、保険料を高くして病人を保険に加入させないようにします。アメリカの公的保険制度であるメディケイド(低所得者医療扶助)に加入するためには、貯金をすべて使い果たし、貧困ライン以下にならなければなりませんので、結局、解雇された大部分の人たちは無保険になるしか選択肢はなくなるわけです。なお、アメリカには公的医療保険制度として、「メディケア(高齢者医療保険制度)」と「メディケイド(低所得者医療扶助)」の2種類があり、この2つの公的医療制度に加入する人は、約9,000万人といわれています。

このような状況の中で、アメリカの無保険者は2010年には5,200万人を超えるといわれています。これまで書いてきた内容で分かりますが、アメリカで無保険になっているのは、実は保険料が払えない貧困層ではないのです。貧困層の人たちはメディケイドでカバーされています。メディケアとメディケイドではカバーされない65歳以下の人で職を持ってある程度の収入があるいわゆる中流層の人たちが無保険になっているのです。

また、アメリカでは株式会社が病院を経営することが認められており、大規模な病院チェーンが存在します。病院経営者は利益を上げるという目標が第一になりますので、医療サービスの質は二の次になります。目標を達成した経営者は高額のボーナスを得ますが、達成できなければその地位から追われます。生き残るためには利益を上げるしかありません。競争市場での病院は株式会社型の運営をせざるを得ませんので、全体としてアメリカの医療サービスの質は目に見えて低下しました。

医療費を減らすには、入院日数とベッド数を減らすことが近道ですので、日本と比べてアメリカの入院期間は極端に短かく、ベッド数は非常に少ないです。日本はアメリカを見習い、無駄を減らして効率的な病院経営をするためと称して、入院期間を短縮し、ベッド数を減らす政策が進められています。皆さんの中にも、病院へ入院して早めの退院を求められたり、手術後回復が不十分な時点でも退院させられた人がいると思います。これは、入院が長くなると病院の収入が少なくなり、経営が成り立たないような医療制度になったために仕方なく行っていることなのです。

アメリカの保険制度にはもう一つ問題点があります。アメリカのように民間の保険が中心であれば、患者と医師の間には政府や公的機関ではなく、医療保険業界というビジネスが介在します。このようなシステムでは、保険会社が治療方針に対しても指示を出すようになります。医師の労働時間が長く、疲弊しているといわれていますが、なぜ頑張れるかといえば、私たち医師と患者さんの間には人間同士の触れ合いがあるからです。ここに保険会社が介入してくれば、どんな関係になるかは火を見るよりも明らかです。

「市場原理」が競争により質を上げる合理的なシステムだということは、多くの経済活動のなかでは事実です。しかし、「いのち」を扱う医療現場に導入することは逆の結果を生むということがアメリカの医療制度は示しています。日本でも、病院経営に株式会社が参入することが検討されていますが、効率や利益を求める市場原理を医療の現場に持ち込むやり方は間違っています。アメリカでのこのような失敗を見ると、日本の医療制度がいかにすばらしいものであるかが分かります。日本をアメリカのようにしてはいけません。私は、『国民皆保険制度』と『非営利組織による医療』を守ることが自分の役割だと思っています。