「沢田内科医院の軌跡」としてこれまでの沢田内科医院ニュースレターを120回分まとめた本を作りました。そのあとがきに書いたものを転載します。

■小学校6年生で函館へ修学旅行
古いアルバムをスキャンしたことがあった。その中で今でもその写真を撮った時のことを鮮明に覚えている場面がある。修学旅行で函館へ行った58年前、新しく就航したばかりの青函連絡船「津軽丸」のデッキで小学校6年生の男子だけで写真を撮った時の記憶である。その頃、西目屋村から出るといったら観桜会(津軽弁で発音するとがんごうかい)で年に1回弘前へ出る程度でした。小学校のクラスは男子が11人、女子が9人。6年間でいろんなことをしました。学校から見える岩木山の絵は何枚も描きました。小学校の頃すでに、父の125ccのオートバイを運転していました。山の中ですから警察官はいません。小学校の校庭をオートバイで走っていた時、休みの日なのに校長先生と出会ってしまいました。その時校長先生は、「気つけで帰れよ」と声をかけてくれました。写真の左端が私です。何人かはもうこの世にいません。この時の修学旅行には1人が参加できませんでした。健康上の理由ではありません。経済的なことで修学旅行に行けなかった時代だったのです。

■「部落の女医」(岩波新書)
今は居住地のことを「地区」という。私が子どもの頃は「部落」と言った。私が医師になろうと決心した高校2年の時、今泉本店で「部落の女医」という岩波新書に出会った。53年前のことです。私は弘前のずっと奥の西目屋村で育ったので、大きな病院だけでなく小さな診療所でも医師の活躍の場があることを知っていた。この女医は部落でどんな医療活動をしているのだろうか。私は、寒村での女医の活動記録だろうと思ってこの本を買った。ところが違った。この時初めて「被差別部落」ということを知った。精神的に差別され経済的にも恵まれない特殊な集団の中での医療のことを知った。医学ではなく医療のことを。そして、一隅を照らすためにはやはり弘前で医師になろうと決めた理由のひとつがこの本だった。小林綾という女医は平成30年に90歳で亡くなっている。「部落の女医」は絶版となり今は手に入らない。

■初めての給料
初めて給料をもらった日のことも覚えています。44年前のことです。弘前大学医学部を卒業した後、大学院医学研究科へ進学しました。今は違うようですが、その頃は大学院生は大学病院で働いても給料はありませんでした。初めて給料をもらったのは大学院1年生で三沢市立病院へ勤務した時でした。貨幣価値が違うので単純には比較はできませんが、何と、金額だけを比較しても現在の大学卒業生が会社からもらうであろう初任給の2倍はありました。私は医師になって1年目。外来で患者さんを診察しても、病棟で患者さんを受け持っても先輩の医師からいろいろなことを教えてもらうだけ。病院のため、患者さんのために働いているという意識が全くありませんでした。ただただ勉強させてもらっている、研修させてもらっているという感覚でした。上司の内科部長に「こんなにもらっていいのでしょうか・・・・」と相談しました。その先生には、「これは奨学金のようなもので、将来の君に対して払っているのだから、もらっておきなさい。」と言われました。