■はじめに

弘前大学消化器血液内科第2研究室で直也に割り当てられた席は父親が若い頃に使っていた席だった。
早速、同じポーズで記念写真!

このたび沢田内科医院を継承することとなった澤田直也と申します。澤田美彦の長男です。1979年生まれの40歳です。弘前二中、弘前高校出身で岩手医科大学を2004年に卒業し、4年間神奈川県にある茅ヶ崎徳洲会総合病院(現:湘南藤沢徳洲会病院)で初期研修および後期研修をしました。2008年に弘前に戻ってきて大学病院を中心に勤務医として働いてきました。大学時代の専門は消化器内科で、内視鏡治療の他、主に肝臓、胆のう、胆管、膵臓に関わる診療に従事してきました。大学院では肝臓病に関する研究を行い、医学博士の学位を授与されました。

こうして継承することになった長~い経緯についてお話したいと思います。

■子どもの頃
私は小さいころ、どんな仕事をしたいか聞かれたときに「切符を切るだけの駅員さんになりたい」と言っていたようです。単純に楽に仕事をしたいと思っていたんですね。父親は当時勤務医でほとんど夜遅くにしか帰ってこないし、せっかく休みの日に一緒にいても電話1本で病院に呼び戻されてしまうしで、医師なんて家族からしたらろくな職業ではないと思っていました。ある正月かお盆に親戚がいる前で父親に「パパが病院やったらどうする?」って言われて「継いでやってもいい」と大口を叩いていたこともよく聞かされました。

中学生になり実際に自分なりに将来の職業として考えたのは教師でした。当時なんとなく数学が面白くなり、人に教えることへの興味も湧いたからでした。しかし父親の表情はあまり芳しくありませんでした。教育に関わりたいという部分に関しては文句なさそうなのですが、問題はその立ち位置だったようです。「教育指導要領にのっとったことしかできない」とか、「結局定年までずっと誰かから指示されながらやり続けなければならないんだぞ」とか、とにかくネガティブな内容ばかりでした。

これまで父親に叱られたなかで強烈に覚えているのが「人の顔色をうかがうような真似をするんじゃない!」と大きな声で言われたことです。たしか自宅で宿題の問題集の答え合わせをしていて、あまり自信がなかったのでおそるおそる様子をうかがいながら答えていたら言われた一言でした。当時はなんでこんなに怒るんだろうと思っていましたが、今にしてみればそれが自分の中で大事にしていることなんだなとわかります。

■医師を目指す
要は人の顔色をうかがわないで自分の矜持を持ち合わせたまま、独立性を保って行うことができる仕事が最終的にやりがいのある仕事になると、そう言いたかったんだと自分の中で理解するようになりました。とはいえ実際の医師がどんな仕事をしているのか中学生、高校生には想像もできません。一番身近な医師はとにかく自宅にいないという圧倒的な不在感でのみ、その多忙ぶりを示していただけです。これだけ他人のために時間を使って、困っている人たちのために尽くしているのだから、きっと立派な職業に違いないと、かなりぼんやりとながら医師を目指すことになりました。

しかしご存じの通り、医師になるのはそれほど簡単な道ではありません。私は弘前高校へ入学はしたものの、全然授業についていくことができず学校にも行きづらくなって図書館へ逃げ込むようになっていました。(このときに身についた読書習慣はのちにとても助けとなりましたが)当然現役では全く歯がたたず、仙台の(今はなき)代々木ゼミナールで予備校生活に入りました。

はじめて親元を離れた全寮制の生活でした。勉強は本当に1年生部分からやり直しでしたが、生活も人間関係も含めゼロからリセットできるという意味ではむしろ気分は軽かったように思います。朝型にすれば学習効率が上がるというのを信じて、友達も作らず、毎朝3時起床で勉強し、21時には寝る生活を繰り返しました。当然そんな極端なことをすれば体が悲鳴を上げます。朝のコンビニで牛乳とパンを買うときの「ありがとうございます」しか声を発さない生活をしていたら、声帯が真っ赤に腫れて喀血し耳鼻科にお世話になり、アトピー性皮膚炎も悪化しました。また高校3年生の頃からの持病の肺気胸(肺が破けて呼吸が苦しくなる病気です。若いやせ型の男性に多いです。)が再発し、救急車で近隣の病院に運ばれ、夏休みには弘前に戻され大学病院で手術を受けました。

そんなときにも両親から諭すように声をかけられたのを覚えています。「浪人の1年間も人生の中の大事な1年間なんだから、勉強だけじゃなくて遊ぶときは遊んでふつうに暮らせばいいんだよ」と。そう言われてからは少し肩の力を抜いて勉強に打ち込めるようになり、なんとか1浪で医学部に入ることができました。

そこまでして入学した医学部でも「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、入学後はやはり学業を忘れて部活動ばかりに邁進する日々を送ってしまいました(水泳、合唱、バンド活動に明け暮れました‥)。やはり最終学年の6年目でツケがまわってきます。とはいえ、一度大学受験で失敗した経験が生きて、国家試験はなんとか1回で合格することができました。

■茅ケ崎徳洲会総合病院
私が卒業した2004年というのは初期研修必修化がはじまった年でもありました。初期研修必修化というのは医学部を卒業し、医師国家試験に合格した者は将来の進路に関係なく全員が内科、外科、小児科、産婦人科、精神科を2年間かけて経験し、将来どの専門科になったとしても最低限医師として基本的なことはできるようになろうというコンセプトではじまった制度です(現在は若干内容が異なります)。

研修先を選ぶというのは就職先の病院を選ぶということです。ここでもまた父親が登場します。「直也は頭で勝負するタイプじゃないから、身体でたくさん経験して学ぶ病院の方がいい」という一言で徳洲会系の病院になりました。今流行りの言い方だと「ブラック企業」みたいな病院でしたが、私はそうは思いませんでした。お坊さんになるためのお寺の修業が厳しいのと同様に、命を預かる職業なんだから厳しくて当たり前だと思っていたからです。当直帯からの引継ぎは内科で朝7時からで外科は6時から。帰るのはだいたい23時~25時でした。救急車は年間8000台(弘前地区全体で年間1万台くらいです)で、当直は月に10日ありました。とにかく徹底的に教え込まれたのは「患者は絶対断るな」ということでした。もちろん断らないためには実力が伴わなければできないことです。もしかしたら将来たったひとりで孤島とか山奥とかの小さな診療所で働くことになるかもしれない。そんなときに一人でも自信を持って診療できるようになりたい。それがモチベーションとなって4年間がんばることが(正確に言えば耐えきることが)できました。

■弘前大学消化器血液内科
大学を卒業後5年目で弘前大学の消化器血液内科に入局しました。入局というのは大きな会社に入社するような意味合いです。消化器内科、内視鏡などについてより深く勉強したいとの思いから決めたことです。大学に入局すると教授から出向先を告げられます。私は弘前市立病院で2年半仕事をしてきました。そのときにはじめて自分がやってきた医療が青森県でも活かせると感じました。その後、東日本大震災があった年の4月からは高度救命救急センターで1年間救急の研修をしました。以後は胆のうや膵臓の内視鏡治療を中心に大学病院の消化器内科で診療を行ってきました。途中で山形県酒田市の日本海総合病院に1年間勤務しましたが、ここでは非常にたくさんの内視鏡検査を経験できました。そして今回40歳を機に先代から重いバトンを手渡されることになったしだいです。

■これから
これまで振り返って、とても大切なことは「待つ」ということです。教育をはじめ、長いスパンをもって判断しなければわからないことが世の中にはたくさんあります。両親をはじめ、たくさんの方々が私がここに辿り着くのを「待って」くれました。そしてこれからたくさんの患者さんを「待たせる」ことになっていくと思います。もちろん無駄な時間は短くしていく必要があるのですが、目の前のひとりひとりの患者さんの現実の生活に向き合いながら治療につなげていくためにはある程度の時間は必要になります。

診療時間のうち最も重視しているのは実は問診です。患者さんからの問診だけで6~7割は診断にあたりをつけています。残りの2割くらいを実際に体に触れる身体診察で補い、残りの1割を採血検査や画像検査で決めに行っているイメージです。診察室に入ってきた瞬間から表情、顔色、体勢、仕草、話し方、同行者との関係性など多くの非言語情報も含め総合的に分析して診療しているのです。これはいくらAIが発達してもなかなか追いつかない部分だと思います。そしてどうしても時間がかかる部分でもあるのです。診察室2診体制がとれる間は多少なりとも改善されるとは思いますが、急患が入ることもあるため引き続きお待たせすることは多くなると思います。

効率化という意味では電子カルテの導入も今回の継承にあたり考慮された項目です。しかし結果的には見送りました。細かいことを言えば利点もないわけではないのですが、一番の欠点は、どんなに努力しても患者さんの顔を見ている時間より、コンピューターのモニター画面をみている時間が長くなってしまうことです。これまで待ち時間が長くても通院してくれている患者さんたちが望んでいるのは目先の効率性ではなく、しっかりとした問診や身体診察、安心できる治療方針の決定過程なのではないかと考えたためです。

■おわりに
先代よりもまだまだ未完成な部分は多いと思います。現場の医療はなんだかんだ言っても経験がモノを言う世界です。これまで当院に通い続けている皆さんが良いと思っている部分が減らないように、また悪いと思っている部分が少しでも減るように改良を続けながら日々の診療にあたりたいと思います。自分の症状が「どこの科に行ったらいいかわからない」、「何が悪いのかわからないけど何だか普段とは違う感じがする」、むしろそんなときこそ気軽に相談にのれるような、そういう場所であり続けることが当院の存在意義なのではないかと考えています。

サッカーに例えるならば華麗にゴールを決めるだけがサッカーではありません。そこに至るまでにまずはどこにパスすべきか司令塔が適切に判断し、パスできなければゴールにはつながりません。私は診療体系においてはゴールまで自分で決められそうであればもちろん自分で決めに行きます。しかし他の専門科あるいはより高度の医療機関において診断、治療が必要と判断すれば速やかに紹介(パス)し、できるかぎり治療および回復というゴールまで早くたどり着く手助けができればと考えています。

地域に根差した医療を継続していくために力を尽くして参ります。これからも職員一同よろしくお願い申し上げます。