馬門御番所

津軽弁の情報を探していると、平内町と野辺地町の間に「藩境塚」というものがあり、ここが津軽と南部の境だという情報に出会いました。ネット社会の現代、野辺地町のホームページを見つけ、グーグルマップのストリートビューと組み合わせると、実際にそこへ行かなくても疑似体験ができます。しかし、弘前大学医学部で津軽弁の講義を担当する私は、こんなことで満足できるわけがありません。お盆休みの間にさっそくそこへ行ってきました。

私は昭和52年に三沢市立病院、翌年は公立七戸病院、昭和54年には平内中央病院に勤務したことがあります。しかも、昭和56年から57年には町立大畑病院にも勤務していました。つまり、ここは数えることができないくらい通り過ぎていたのです。知らないとは恐ろしいことです。パスツールの言葉と言われていますが、「幸運は用意する心のみに宿る」のです。「期待している人のもとに、幸運の女神が訪れる」のですから、そこを通っていながら、その当時の私には女神は訪れなかったのです。

四ツ森 二本又川の両側に古墳のような森が4つある

青森県の地図を見れば分かりますが、津軽から南部への道はここしかありません。現在の国道4号線、当時は奥州街道です。今ではみちのく有料道路を通ったり、青森市から十和田市へ抜ける道、十和田湖を通る道がありますが、江戸時代にこれらを通って行き来していたとはとても考えられません。

国道4号線を野辺地町方面へ運転していくと、陸奥湾側に馬門御番所がありました。馬門御番所は南部藩が津軽藩との藩境に設けた関所です。ただ、この建物は実際の御番所ではなく、今はトイレでした。なお、実際の馬門御番所はこの場所ではなく、野辺地側へ1kmのところにあったようです。

復元された高札には、手形がなければ武具や火薬、人、染料などを持ち出すことを堅く禁じるという覚書きが記されていました。津軽藩に入るには、馬門御番所で許可を得てから海側に降り、南部津軽藩境塚を越えてむつ湾沿いに伸びていた奥州街道を通り、津軽領の狩場沢御番所でさらに許可を得なければならなかったようです。

津軽と南部の境界にある二本又川

さて、藩境塚です。国道から海側へ歩いて下りて行くと、土で盛った古墳のようなものがありました。南部藩側に2基作られており、小さな川(二本又川、境の川とも呼ばれる)を渡ると、今度は対抗するように津軽藩の藩境塚が2基並んでいました。川を挟んで、「従是東南盛岡領」、「従是西北津軽本次郎領分」と書かれた木製の標識がありましたので、この川が津軽と南部の境だということが分かります。藩境塚は、直径が底面で10メートル、高さ3.5メートルで青森県の指定史跡です。

江戸時代、津軽と南部の間は、奥羽山脈とこの藩境塚で分けられていたのです。手形がなければ、人の往来はもちろん物資の往来もなかったわけです。婚姻も含め人の交流がなければ、当然、文化の交流もなかったことになります。つまり、津軽弁と南部弁の境界がここだということになります。この結果、同じ青森県内で、隣接する二つの町で違う方言が話されているのです。

平内町で野辺地町に近いのは狩場沢小学校、野辺地町で平内町に一番近いのは馬門小学校です。グーグルマップで調べてみると、狩場沢小学校と馬門小学校は3.1kmしか離れていません。歩いて39分、車では5分しかかかりません。こんな近くの小学校で、津軽弁と南部弁という別の方言が話されているというのは驚きですね。なお、狩場沢小学校は統合して今はなく、平内町立東小学校になっています。

津軽弁はこれからどうなって行くのだろうか?若い人たちの間では、津軽弁の単語がだんだん消えて行っています。平成32年から、小学校では英語が教科として教えられることになっています。情報が瞬時に飛び交い、人の交流が限りなく広く行われる現在、津軽弁だけでなく、日本語自体もどうなるのでしょうか。津軽弁は大事にしなければいけません。日本語も大事にしなければいけません。人の心は言葉で作られるのですから。