48年前のことになるが、弘前高校の入学式の光景は今でも忘れられない。誰も知らない集団の中にいて緊張していた私は、校長の話に衝撃を受けてしまった。これが高校なのかと私は思った。壇上に立った校長は私たちを大人として扱うのです。にこりともしない独特な風貌の校長が、その後の私の生き方に大きな影響を与えた小田桐孫一校長だったのです。

高校の3年間で、小田桐校長は「校長講話」としてたくさんの話をして下さいました。その校長講話の中で印象深かったことの一つが「他律的学習と自律的学習」という話でした。学ぶとは、真似ること模倣することが基本で、教育の始まりは他律的なものであり、これは子どもの学習であるとした。つまり、物事を考える基礎的な知識や技術は他から強制的にでも教えられなければならないと説いた。一方、自律的学習とは、与えられたものをどのように受け入れるかを考えながら自発的に学習することで、自律的になればなるほど学習の効果が上がる大人の学習であると説いた。

同期生の何人かは、高校3年の秋には独学で数学を終えてしまっていた。高校生ながらも自分で解釈した自律的学習を実践していたつもりだった。また、ある通信添削の問題を、高校数学を駆使して友だち同士で解いた。この問題はどのような数学的手段を用いてもよいことになっていたため、思いもよらない方法で解答してくる友だちが必ずいてすごく勉強になった。これに比べ、学んでいる分野が分かり、それ自体が解法のヒントとなる学校の数学には物足りなさを感じていたものである。数年前に弘前高校の学校評議員として授業を参観する機会があった。私と同年代の校長の話では、私たちの頃のように数学を独学でどんどん進んでいく学生はほとんどいないとのことであった。高校生は他律的学習を続けているようである。

物ごとを批判的に考えて判断を下し、それを言葉で周りの人に伝えるという能力は、他律的学習だけでは得られず、自律的学習が必要である。学校を卒業した後の現実社会は、正解のない世界である。ベストと判断して下した結論が異なることは日常茶飯事である。このような社会では、決まった結論を求める力ではなく、その状況にあったベストの解決法を選択する能力が要求されるのである。もちろん、その前提として基本的知識や技術が要求されるのは当然である。

「温故知新」という言葉がある。約2,500年前の孔子の言葉である。故きをたずねて新しきを知る。この言葉の解釈は何通りかあるが、将来の事態を知りたいのなら、過去の経緯を考察しなければならない、と私は解釈している。基本的な知識や技術を身につけることを故きをたずねるとし、自分が主体となって学び判断することを新しきを知るとすれば、小田桐校長が私たちに語った「他律的学習と自律的学習」の精神は、「温故知新」と相通じる。学習指導要領でその時代に要求されるいろいろなことが示されているが、教育の本質はいつの時代も同じだと思う。分かり切ったことではあるが、まずは基本的なことを身につけ、社会に出た時には自分で判断して生きて行く力をつけることである。私はこのことを高校時代に教えてもらったことになる。

(弘前市教育委員会が弘前市の小中学校教職員を対象に発行している「教育ノート」に書いたものを転載しました。)

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