水戸市のある湖で、頭や首などに傷を負った7羽の白鳥が無残な姿で死んでいたという事件がありました。 この事件では、男子中学生たちが白鳥を棒で殴ったことを認めました。 子どもの日である平成20年5月5日の朝日新聞の社説は、この事件を題材にした「白鳥も君も同じ命なのに」という題で、 すべての生き物の命の尊さを説くとともに、命を粗末にする社会の責任を問う内容でした。 私は、肉食動物だけでなく、私たち人間も生き物の命を奪って生きていることに全く触れていない社説に違和感を持ちました。 すべての生き物は、他の生き物の命を食べて生きているからです。

社説では、「白鳥にも命があり、懸命に生きている」こと、「殴られた時の痛みにほんの一瞬でも想像を及ぼしてみる、 そうすれば、棒を振り下ろしたりはしなかっただろう」と述べ、「動物にも植物にも、自分と同じように命がある。 そんな当たり前のことを当たり前に受け止める感性を、今の社会が失わせつつあるのではないか」と論じています。 そして、「家族で、あるいは友達同士で命の大切さを考えて、生きるものへのいとおしさを感じてみたらどうだろう。 動物や植物に同じ生きものとして共感できれば、人も生きやすい社会になるだろう。」と結んでいます。

どんな生き物にも命があり、それを殺してはいけないという内容です。人の命を軽く扱うことはもちろん反対です。 しかし、世の中のすべての命を奪うことが許されないなら、 人間は自然界に生きるヒトとして生きて行くことはできないでしょう。 あらゆる生き物は、他の生き物の命を奪って生きているのですから。 食べるために命を奪うのは、食物連鎖で成り立つ生き物の生存のためには必然のことです。

私たちがスーパーで牛肉、豚肉、鶏肉などを買って食べます。 これらは誰かが牛、豚、鶏を殺さなければ肉としてスーパーの売り場には出てきません。 ただ単に、生き物の生命を奪うのが許されないのであれば、この職業の人たちの立場がありません。 この肉を食べているのですから、私たちも間接的に動物の命を奪っています。 しかし、これはヒトが生きて行くために他の動物の命を奪って食べるためです。

食べるため以外に生命を奪うことがあります。自分の命を守るため、戦争、スポーツとしての狩猟や魚釣り、などです。 社会を防衛するためには合法的に人の命を奪うことがあります。死刑です。 そして、今回のように動物を無残にも殺すことです。

今回の中学生が白鳥を殺して非難されたのは、食べるために殺したのではないからだと思います。 白鳥を食べるために殺したのであればいいのかという議論にもなりますが、ここでは触れません。 中国人や韓国人は犬を食べると非難されます。日本人がクジラを食べることを非難する国もあります。 どの動物を食べるかは、これまで人間が生活してきた歴史や文化で判断しなければなりません。

人を殺すことが許されない理由は誰もが考えていることだと思います。 自分が生きる自由は奪われたくないのですから、他人の生きる自由を奪うことは許されないというのも一つの理由です。 しかし、他人の命を奪わなければ自分が生きて行けない事態も想像されます。 人を殺すことは許されないことは、暗黙知の中で誰でも理解していることです。 しかし、なぜなのかを言葉で明瞭に説明することは非常に難しいことです。

小さなアリを見ながらよく考えます。 人間は精巧な宇宙船を造って宇宙に飛び出すことができるのに、こんな小さな命を持つアリを作り出すことはできないと。
人は他の生き物の命を奪いながら生きて行きます。 命の尊さを考えながら生きて行くことが、自分がよりよく生きて行くことにつながりそうです。 なぜ人を殺してはいけないのかの理由を求めながら。

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