(弘前市医師会報、平成6年12月15日号に書いた文章を転載したものです)

春になり、桜の花びらが散ると運動会シーズンになる。日曜日の朝は、その開催を知らせるための花火の音があちこちから聞こえ、朝の睡眠を妨げる。人は勝手なもので、これが自分の子どもの運動会の合図であれば、騒音には聞こえない。特に小雨がぱらつく朝は、子ども達よりも待ち焦がれていることさえある。私が子どもの頃には運動会は年2回、春と秋にあったと記憶している。最近は勉強が忙しくなったためであろうか、あるいは、週休2日のしわ寄せであろうか、ほとんどの学校が春1回である。私が育った中津軽郡西目屋村では、秋の運動会は村の人たちも参加して、さながら地域の年中行事の一つのようであった。忙しい秋の収穫の時期にもかかわらず、学校に通っている子どもがいない家の人達も一緒に楽しんだ。春の運動会は、弘前よりも遅い桜の木の下で行われたこと以外まったく思い出せず、秋の運動会ばかりが記憶に蘇ってくるにはこのためであろうか。

過疎の村の例にもれずに西目屋村からも私も含め、若者がみんな町へ出てくるため子どもの数が減り、私達が卒業すると間もなく小学校、中学校ともに統合されてしまった。同時に、村人達も参加していた小学校の運動会もなくなってしまった。私が学んだ小学校は取り壊され、現在は当時の校庭は、たまに近所の子ども達が野球を楽しんだり、お盆に櫓を組んで盆踊りに使われる以外は、草ぼうぼうの荒れ地となってしまった。ただ、岩木山だけは子どもの頃と変わらぬ姿でそびえ立ち、小さい頃の光景を思い出させてくれる。

学校の教科の中には国語、数学などの他に体育がある。私は生後間もなくポリオにかかったため、運動が自由に出来ず体育が苦手であった。速くは走れなかったが、それでも、仲間達はソフトボール、ドッジボールに入れてくれ楽しく遊んだ。しかし、学校全体の運動会は大嫌いであった。私の出番がないのである。この時ばかりは運動神経が発達した足の速い友達を羨ましく思ったものだ。しかし、「自分は勉強では負けないぞ」という意識があった。私にとっては体育と運動会を除いた学校生活が活躍の場であり、この意識があったのでそれほど苦痛ではなかった。そして、学年が進むにつれて更に運動能力に差がついたが、私が走れないということを承知で、足手まといになるのが分かりながら私を仲間に入れ、一緒に遊んでくれたことを幸せに思う。習字や図画がうまい友達、足が速い友達、球技がうまい友達、休み時間だけ元気な友達、それぞれに特技があった。それぞれに存在する物理的な場所、心理的な場所があったと思う。今運動会 では、それぞれが立派な社会人となり、4年に1回、オリンピックの年に開かれるクラス会では思い出話として当時のことを語り合うようになった。

さて、最近の運動会を見ていると面白い現象があることに気づいた。私には子どもが3人いる。勤務の関係で子ども達が転校したので、複数の学校の運動会を経験した。運動会の競技種目をみると、明らかな順番をつける100メートル走、マラソンなど一般的なものはもちろんあるが、偶然が支配する競技があまりにも多いような気がする。例えば、10メートル走った後、くじを引き、運が良ければそのまま近道をしてゴール出来る。ある人はむしろ遠回りさせるなど、体力や走力と関係のない競技が多い。むしろ、運動会にもかかわらず体力のある子、走るのが速い子が実力を発揮できないようにしているとしか思えない。単に面白くするだけでこのようなゲームにしているのかも知れないが、これは逆の意味の平等主義ではないだろうか。足の遅い子にも勝つチャンスを与える。すばしっこい子が必ずしも障害物競走で勝てない、ある意味では勝たせない。これでは運動会で元気はつらつとなる子の出番はなくなってしまう。文武両道に優れている子もいる。両方が苦手な子もいる。それでいいではないか。素直にその子の力が出せる場を作ってやるのが学校ではないだろうか。それを偶然が支配する「くじ」でその可能性を摘んでしまっているのではないだろうか。運動会では、走るのが速い子が勝ち、遅い子が負けるのは当たり前だ。この方が平等ではないだろうか。極端な例ではあるが、英語の試験でくじを引き、ある人は辞書を使用しても良い、ある人はノートを見ても良いなどとしたらどうであろうか。これが平等でないことは明らかであろう。

人にはそれぞれ何か良いところがある。いわゆる一流大学へ入り、社会で成功する人もいる。学業はまったくダメだったが事業で成功している人もいる。また、スポーツで生きて行く人もいる。それぞれに活躍する場があり、人はそれを見つけて生きて行く。学校は、平等主義に名を借りて小さな芽を摘んではいけない。ある子どもに活躍の場がないからといって、本来活躍できる子どもからその場を奪ってはいけない。子どもを平均化するのではなく、長所を伸ばすべきだ。

自分の子どもが運動会で走るのを見ながら自分の小さい頃を振り返り、何か間違っているのではないかと考えてしまう。