平成22年から、弘大医学部で津軽弁の講義をしています。医師になろうと入学したばかりの1年生に対して「臨床医学入門」という科目があり、年間30回講義があります。その中のひとつを「医学津軽弁」と称して担当しています。

もちろん、たった1時間の講義で津軽弁を言葉として教えることはできません。強調していることは二つです。医師としてコミュニケーションが大切であることと津軽弁を拒否しないで欲しいということです。そして、日本語で考えることの大切さも。

弘大医学部は以前は青森県出身者が少なかったのですが、最近は、半分近くが青森県内の高校を卒業した人たちです。地元の高校卒業生を優先的に入れる地域枠という制度ができましたが、それぞれの大学が地域枠を作っていますので、効果はどうなのでしょうか?新聞によると、臨床研修医の数が増えているようですので、それなりの効果があるのでしょう。

まず、川柳の聞き取りをしてみました。「とちゃもつけ おんじほじなし かちゃちゃかし」。さすがに、茂森新町出身の医学生はきちんと聞き取りができました。津軽では、「痛いと病める」を区別していること、日本語では「牛肉」や「豚肉」というが、英語では「ビーフ」と「ポーク」など別の単語が充てられていることなどから分かるように、言葉は生活に密着していることを強調しました。

考え方は民族によって違うことも話しました。アメリカでは住所を書く時に番地から書きます。何番地?6の4、どこの?茂森新町1丁目の、どこの市の?弘前市の、何県?青森県、という風に。

私は血液がどう固まるのか、どうして出血するのか、という分野を勉強していました。日本では、血液が異物に触れると接触因子というのが最初に活性化され、どんどん凝固のカスケードが進んでフィブリンというのができて固まると習います。

ところが、アメリカで医学生や研修医に説明する時は逆に教えています。血液が固まりました。これはフィブリンができたためです。フィブリンはトロンビンがフィブリノーゲンを活性化するためにできます。トロンビンは・・・・、と順々に日本とは逆に行くのです。そして、最後に血液が異物に触れると接触因子が活性化されるから。こんな具合です。

こんなに日常的なことを考える順序が違うのですから、考え方が違っても不思議じゃないなと思ったものです。きっと、方言もそうだと思います。「飲まさる」とか「行がさね」などという津軽弁は標準語では長い文章でなければこもった気持ちを説明できません。違った地方の言葉の中で育てば、考え方が違ってきても不思議ではありません。ですから、英語を話して世界に出ていくことも大切ですが、きちんと日本語で考えることがもっと大切だと私は思っています。

津軽弁の講義ですが、90分間こんな内容の話をしてきました。いつものことですが、講演や講義をすると自分の中にモヤモヤとあったものがはっきり意識できるようになりますので、頼まれれば断ることなく引き受けています。