「山内君、治してやれなくてゴメンネ」。私は外来を終えた夕方、長い間病気と闘い、意識が薄くなりかけた彼にこう言った。彼は目を閉じたまま、声にはならなかったが「うん」とうなずいた。この3時間後、彼は奥さんに看取られながら息を引き取った。これが彼との最後の会話であった。

山内君(仮名)は28歳の若さで亡くなりました。私が山内君と初めて会ったのは高校生になったばかりで、お母さんと一緒に来院した時です。中学生で悪性リンパ腫となり、小児科の先生の治療で寛解となりました。高校生になったので内科で治療を継続しようと私に引き継がれました。

現在も同じような治療法ですが、その頃は初期の治療に成功すると維持療法をしばらく続けました。再発することもなく高校を卒業し、大学受験に失敗した彼は弘前で就職しました。その後、私も弘前市立病院へ転勤となり、彼は元気に働いていることを報告しながら挨拶に見えました。風邪で時々受診する彼に私は「彼女は?」と時々けしかけていました。

それから間もなく、彼は抗癌剤を使ったことを知っていましたので、結婚に差し支えないかどうか相談に見えました。 その頃、アメリカの医学雑誌New England Journal of Medicine に小児癌で抗癌剤を使用した約2,000例で、奇形児が生まれる確率は抗癌剤を使用しなかった人たちと同じ確率である論文が出ました。私はこの事実を彼に伝え結婚には差し支えないと話しました。

きっと、その頃はすでにしっかりしたすてきな彼女がいたのでしょう。間もなく結婚披露宴の招待状を持ち私のところへ来ました。外来のカーテンを開けて「今日はこれを持ってきただけ」と照れていたのでしょう、招待状を渡すとすぐに帰っていきました。

彼女と幸せな家庭を持った彼が、平成10年秋に化膿性扁桃炎で受診しました。 高熱を発し、食事が摂れなかったため入院治療をすることにしました。ただ、点状出血が少しあったことが気がかりでした。入院して血液を検査した結果、血小板が少なく、若い男性にしては少し貧血であることが分かりました。ウイルス感染で血液が破壊されたか骨髄抑制が来たのだろうと思いました。しかし、扁桃炎がよくなっても血液が回復しませんでした。骨髄検査を行い、顕微鏡を見た時にその原因が分かりました。骨髄異形成症候群だったのです。

本来、骨髄異形成症候群は高齢者に多い病気ですが、子供の頃に抗癌剤を投与された山内君はこの若さで発症したのです。根本的な治療は骨髄移植しかありません。しかし、彼は骨髄移植の話には乗り気ではなかった。自分以外の人に迷惑がかかるのを考えたようだ。アパート暮らしから奥さんの実家に転居したのも人を気遣う山内君らしい。自分にもしものことがあった時に奥さんが実家に帰りやすいように、とのことを後でお母さんから聞いた。貧血は進行してきた。ちょっとしたことで熱が上がり、扁桃炎を繰り返すようになった。熱が続くため入院治療が続いた。

次第に病勢は進行し、歯肉が腫れ、肝臓も大きくなり、腹水が貯まるようになった。そして、意識がもうろうとなり始めた。外来が終わって病室へ行き彼の顔を見た私はこれ以上は何もしてやれないと思った。「山内君、治してやれなくてゴメンネ」。この言葉しか出なかった。